いざ!ノイシュヴァンシュタイン城へ…

ノイシュヴァンシュタイン城はルートヴィッヒ2世の空想の世界を現実にした夢のお城でもあります。

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ルートヴィッヒ2世 その2

ルートヴィッヒが9歳になると、今までの養育係とは引き離されることになり、教育方針も男性的な厳格へと変化していきました。父のマクシミリアンは、息子を厳格にすべきと養育係に初老のフランス軍人を起用しました。その教育係は、軍人的で禁欲的な生活習慣をルートヴィッヒに強要することになります。厳格と服従の精神を彼に叩き込むとともに、帝王学を施すため極端なエリート意識教育を行いました。早朝から夜までまさに1日中、全てのカリキュラムが組まれることになりました。英才教育のため、様々な学科の家庭教師がそれぞれ就くことになりました。そして学習には母親が付き添いをして、父親は時として体罰までも与えたといいます。ルートヴィッヒは、理解をすることは早かったようですが、歴史や地理など興味のある分野しか勉強に身を入れて取り組まなかったそうです。

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少年時代

ヴィッテルスバッハ家は倹約をモットーにしていたこともあり、ルートヴィッヒ1世はケチでも有名でした。王家としては非常に質素な生活ぶりでしたが、二人の王子ルートヴィッヒ2世とオットーは召使たちが気の毒に思うほど、粗末な食事しか与えられなかったとも言われています。その当時は、「飢え」は鍛錬や罰としてとても、もてはやされていました。厳格な指導に基づき、正しい経済観念を植え付けるためにお小遣いもほとんど与えられていなかったといわれていますが、後年のルートヴィッヒ兄弟の散々ぶりを見ると、極端にもみえる厳しい教育は親が意図するのとは反対の裏目に出てしまったとしか思えません。

このような極端な教育方針は、決してヴィッテルスバハ家だけがしていたのではなく、ウィーンのハプスブルク家などの当時の王侯の子弟の教育にはよく見られています。しかし、思春期でもあり多感な時期でもある青年期のこのような極端な教育は、人間として成長するにつれて精神構造に大きな影響を与えたとしか思えません。小さい頃からルートヴィッヒは想像力豊かで感受性の強い子供でしたが、後々によりはっきりと表れてくることになる幼稚な自己愛を膨張させることになりました。

子供時代から青年期

ルートヴィッヒの子供時代ですが、父親のマクシミリアン2世が荒れた城を改築したホーエンシュヴァンガウ城を好んで、よく一家で滞在していました。ルートヴィッヒは母親マリー、弟オットーとともによく周辺の山歩きにでかけていたようで、彼らの登山用ズボンなどのスタイルが宮廷での流行にもなったと言われています。

ホーエンシュヴァンガウ城は、豊かな緑と湖に囲まれたお城で、白鳥の騎士ローエングリンや中世のゲルマン伝説などを題材にした壁画や白鳥にちなむ装飾で満ちていました。読書と夢想にふけることが大好きな多感な少年からすると、その場所はおとぎの国にような空間でもありました。やがてルートヴィッヒは空想の中で、いつしか白鳥の騎士に自分自身を重ね合わせることになり、中世への憧れを強く持ち甘美な時間を過ごすようになりました。

そしてその当時は、ドイツでは中世への憧れを一つの特色とするロマン主義の風潮がもてはやされていた時代でもありました。ロマン主義は18世紀の後半に生まれています。優先するのは論理よりも情感を重視して、民族性を重んじる思想としてヨーロッパに広く浸透していきました。そしてロマン主義は、文学・音楽・美術などのあらゆる芸術分野に広がりを見せることになり、人々に大きな影響を及ぼしていきました。特に、民族としての国家統一の遅れていたドイツでは、ロマン主義の思想は深い共感を呼ぶことになり多くの人々に支持されていきました。ルートヴィッヒの過ごしたホーエンシュヴァンガウ城を代表するように、もともと荒廃していた中世の城を19世紀になってからドイツの各地で修復されていったのも、ロマン主義の一つの表われでもあります。ロマン主義という当時の風潮の中で、青年へと成長したルートヴィッヒが中世の伝説の世界に、深くのめりこんでいったのも、ある意味考えるとごく自然なことでした。

ルートヴィッヒが16歳になるほんの少し前に、やがて彼の生涯に渡って大きな影響を与えるべく、運命的な出会いが待ち受けていました。その人はリヒャルト・ワーグナー。ワーグナーの作り出す壮大な物語の世界感に、ルートヴィッヒはたちまちワーグナーの世界観の虜になりました。

衝撃の出会い

12歳になったときルートヴィッヒはリヒャルト・ワーグナーの作品を初めて知りました。ミュンヘンではその頃、歌劇「ローエングリン」が初演されていましたが、オペラはまだ早すぎる!とルートヴィッヒはオペラを父親に禁じられていました。ようやく父親から許されて、初めての歌劇をミュンヘンの宮廷歌劇場で観賞したのはルートヴィッヒ2世が15歳の時です。そして初めて歌劇は「ローエングリン」でした。

「ローエングリン」を観賞して、感動に胸を震わせ、はらはらと涙を流して感動感激するルートヴィッヒの姿は周囲もあきれるほどでした。ワーグナーの作り出す壮大な世界感は、まさにルートヴィッヒが憧れ続けていた夢そのものだったのです。ルートヴィッヒはたちまちワーグナーに魅了され、父王に「ローエングリン」の再演をおねだりもしています。そして、続いて「タンホイザー」の観劇も実現することになりました。

その当時のドイツでは、多くのロマン派の作曲家が活躍していました。その中でも、オペラというジャンルはなかなかドイツ社会には浸透していきませんでした。ドイツの宗教的・国民的気質と気風が、快楽主義的なオペラという形式自体を嫌っていた側面もありますが、イタリアオペラが正統派のオペラ形式と何世紀もの間なされていました。ドイツや他のヨーロッパ諸国の作曲家がオペラを創作する際にも、台本はイタリア語で作曲されていたということもありました。18世紀までヨーロッパ諸国では、イタリア音楽こそが最高。イタリア音楽ではなければならぬ。という認識が根強く残っていました。事実どこの宮廷でも、イタリア人の音楽家が重用されていました。しかし、その後18世紀後半から19世紀にかけて、ハイドン、ベートーベン、メンデルスゾーン、モーツァルトなどのドイツを中心にした数多くの作曲家が活躍することになり、ロマン派音楽が隆盛を極めることになりました。。しかまだ、ドイツではオペラを積極的に作曲する音楽家がなかなか登場しなかったこともあり、オペラにはなかなかスポットライトが当たっていませんでした。

ちなみに、本格的なドイツ・オペラの先駆け者は、あの天才音楽家・モーツァルトの手による作品でした。モーツァルトの頃もやはりイタリア音楽の影響がまだまだ強い時代でしたが、ドイツ語による民衆のためのオペラのモーツァルトの作品は大きな反響を呼びことになり、新しい音楽の流れを作っていきました。モーツァルト代表作の「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」「魔笛」など、今も数多く上演されている多くの作品をこの時代に残しています。

ベートーヴェンもオペラに取り組んでいますが、彼が作曲したオペラは「フェデリオ」1曲にとどまっています。そして、次にドイツ・オペラを引き継いだのが、ウェーバーです。ウェーバーはドレスデンで活躍していました。彼の作品の「魔弾の射手」は、物語の主人公はドイツ人です。ウェーバーの作品は、ドイツ人がドイツ人のためにドイツ語で作曲した初めてのオペラになりました。

リヒャルト・ワーグナーですが、彼が少年の頃にウェーバーに影響を受けることになり、ベートーヴェンに感銘を受けて音楽家を志したといわれていますが、ワーグナーの出現によってドイツのロマンチック・オペラは急速に発展していくことになりました。ワーグナーの若い頃は、なかなか作品の芽は出ませんでしたが、1841年の「さまよえるオランダ人」を皮切りにして、「ローエングリン」、「タンホイザー」、「トリスタンとイゾルデ」、「ニーベルングの指輪」など、現在も世界的に人気のある大作を、次々に世に送り出し発表していきました。ルートヴィッヒが初めて「ローエングリン」を鑑賞した頃には、ワーグナーはドイツ・オペラの頂点を極める作曲家として広く認識されていました。