いざ!ノイシュヴァンシュタイン城へ…

ノイシュヴァンシュタイン城はルートヴィッヒ2世の空想の世界を現実にした夢のお城でもあります。

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リヒャルト・ワーグナー

1842年10月20日、ドレスデンで上演された「リエンツィ」初演は大成功に終わりました。この「リエンツィ」の成功によってワーグナーは、ようやく注目されることになりました。

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リヒャルト・ワーグナー

宮廷指揮者として

この成功によってザクセン王国の宮廷楽団であったドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者の職を打診されることになり、翌年1843年2月(30歳)に任命される運びとなりました。1月には『さまよえるオランダ人』が上演されましたが、これはリエンツィとは違い、それほど高い評判を得ることはできませんでした。1844年(31歳)に、イギリスで1826年に客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担しています。ウェーバーを深く尊敬していたワーグナーは、葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲をして、さらには追悼演説を行って、マルチな才能を発揮しています。1845年(32歳)に『タンホイザー』を作曲して上演していますが、助演当初は不評でした。上演され続けるうちに、作品に対する評価は次第に上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになっていきました。1846年(33歳)には、ワーグナーは毎年恒例の復活祭の直前日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーベンの『第九』の演奏を計画しています。その当時は『第九』は演奏されることも少なくなっていて、人びとから忘れられた曲となっていたこともあり、当初は猛反対の声が上がっていましたが、徹底したリハーサルと準備のかいもあり、この演奏は大成功に終わっています。それ以後は、『第九』は名曲としての評価を確立することになりました。1848年(35歳)にルートヴィッヒ2世がこよなく愛した作品の『ローエングリン』を作曲していますが、上演はまだなされていません。

ワーグナーの亡命時代

1849年(36歳)に、ワーグナーはドレスデンで起こったドイツの三月革命の革命運動に参加しています。そしてドレスデンを訪れていたロシアの革命家バクーニンとも交流しています。しかしこの革命運動は失敗に終わりワーグナーは全国で指名手配されることになりました。

ワーグナーはリストを頼ってスイスへ逃れることになり、チューリッヒで1858年(45歳)までの9年間を亡命者として過ごすことになりました。亡命期間中にも、数々の作品を生み出しています。『ローエングリン』はリストの手によってワイマールで1850年(37歳)に上演されています。『ローエングリン』は初演では、やや不評でしたが次第に評価を上げていき、やがてワーグナーの代表作の一つとなりました。しかし、亡命中の身分でもあるワーグナー自身は、ドイツ各地で上演されている『ローエングリン』を見ることができずにいたので、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ」と嘆いていたといいます。ワーグナーが『ローエングリン』を聴くことになるのは11年後の1861年(48歳)ウィーンでの上演で初めて聴くことになりました。

この時期に、彼は独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書きあげて、「楽劇」の理論を創り上げていきました。たとえば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いて、メンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭づくのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難しています。この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことともあり、それからはるか後にナチスに利用されることになりました。しかし、ワーグナーのユダヤ人嫌いは一貫したものではありませんでした。、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したりといった親交もありました。1851年(38歳)には超大作『ニーベルングの指環』を書き始めています。また『トリスタンとイゾルデ』を1859年(46歳)に完成しました。

ワーグナーはこの時期に、数人の女性と交際していました。特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデと恋に落ちて、妻のミンナとは別居しています。この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけにもなっていて、マティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲しています。しかしこの不倫は実ることはなく反対に、チューリヒにいることが出来なくなったワーグナーはそれ以降の1年余りの間、ヴェネツィア、ルツェルン、パリと転々とすることになりました。1860年(47歳)の時にザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可されるようになりました。1862年(49歳)に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかっています。そしてこの年に、恩赦によってザクセン入国も可能になったことで、ワーグナーは法的には亡命者ではなくなりました。そのため別居してドレスデンに住んでいた妻ミンナと再会することは出来ましたが、この時の再会を最後に二度と二人は会うことはありませんでした。そしてこの頃に、ウィーン音楽院の教壇にも立っています。

ルートヴィッヒ2世との蜜月

追放令が取り消された後の1864年(51歳)にルートヴィッヒ2世から突然招待を受けることになりました。ワーグナーの招待を非難した宮廷勢力と、すでにワーグナーと噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマとの仲を、ルートヴィッヒ2世も快く思わなかったこともあり、翌年1865年(52歳)スイスへ退避して、ルツェルン郊外にあるトリープシェン邸宅に住むことになりました。

コジマは少女の時からワーグナーの才能に感銘を受けていました。そして、ワーグナーの支持者でもあったビューローと結婚して、2人の子を授かっていました。ところがこの頃にワーグナーと深い仲となり、そしてワーグナーの娘イゾルデを産みました。(2人とも離婚はしていない)。ワーグナーの正妻ミンナが1866年に病死しましたが、それからコジマはビューローと離婚してワーグナーと1870年(57歳)に再婚しました。コジマと離婚したビューローはワーグナーと決別して、その当時ワーグナー一派と敵対していたブラームス派に加わりました。

1867年(54歳)の時に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成しました。そして1868年6月21日(55歳)にビューローの指揮でミュンヘン宮廷歌劇場で初演されています。『ジークフリート牧歌』は、コジマと子供たちのために密かに作曲した作品です。1870年(57歳)のコジマの誕生日に演奏していますが、現在でも歌劇以外の作品として特に有名です。

1872年(59歳)の時にバイエルン州バイロイトへ移住しました。そしてルートヴィッヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが長く夢見てきたワーグナー自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始めました。1874年(61歳)『ニーベルングの指環』を完成させました。劇場は1876年(63歳)に完成して『指環』が華々しく上演されましたが、ワーグナー自身が演出したこの初演にひどく失望して、再度の上演を強く望んでいましたが、多額の負債があったため、ワーグナーの生前には果たすことは出来ませんでした。