いざ!ノイシュヴァンシュタイン城へ…

ノイシュヴァンシュタイン城はルートヴィッヒ2世の空想の世界を現実にした夢のお城でもあります。

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ルートヴィッヒ2世とワーグナー その2

ワーグナーの評価は、元々は偉大な音楽家だったかもしれまっせんが、その時には「過激な革命家」というイメージが残ったうえに、スキャンダルと借金まみれのワーグナーでした。

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蜜月の終焉

そんなスキャンダル渦中にあるワーグナーを、国王自身が呼び寄せたうえに破格の待遇を与えたということは、周囲だけではなく民衆も驚くのはごくごく当然のことといえるでしょう。そんな周囲の驚愕をよそに、ワーグナーを心の底から敬愛しているルートヴィッヒ2世からすると、そんな周囲の状況には一切お構いなしで、ワーグナーの膨大な借金を肩代わりしただけでなく、破格の年金までも与えます。そして、貴族の屋敷が立ち並んでいるミュンヘン市内の一等地にあるブリエンナー街に豪華な邸宅までもワーグナーに与えました。

そして、ワーグナーの作品で、あまりの大作のために上演することは不可能だと言われていた「ニーベルングの指輪」のために大きな劇場の新設までも提案したほかにも、ワーグナーのために音楽院を設立もして、ワーグナーのためにルートヴィッヒ2世はありとあらゆる手段をとり努力をしてワーグナーに尽くします。若きルートビッヒ青年王は、自分の理想でも夢でもあるワーグナーの夢の世界を、国王になった自分の手で実現させていくことに、無常の喜びを感じていたのでした。

1865年6月に、ミュンヘンの宮廷劇場で「トリスタンとイゾルデ」を初演しています。この上演は不可能という烙印を押されていたこともあり、この作品の初演準備は困難と問題が山積み状態でした。そして5時間にものぼる上演ですが、一応成功を収めることになりました。初演のその夜に、ルートヴィッヒは歓喜の手紙をワーグナーに送っています。その手紙には「なんという歓喜! その完璧さ。恍惚に包まれ・・・溺れ・・・沈み・・・、意識を失う、至上の喜び。神のごときこの作品!」と賛美の言葉を延々と書いています。ルートヴィッヒがワーグナーの作品でも特に気に入っていたのは「ローエングリン」だと言われていますが「トリスタンとイゾルデ」もルートヴィッヒが熱愛した作品だったようです。

このような、ルートヴィッヒとワーグナーの蜜月期間がありましたが、この蜜月期間は間もなく終わりを告げることになるのでした。

ミュンヘンの市民の頭の中には、2代前のルートヴィッヒ1世の時代にあったルートヴィッヒ1世が寵愛したローラ・モンテスとのスキャンダルがまだ人びとの記憶に残っていたこともありますし、またあまりに無分別なルートヴィッヒ2世のワーグナーへ対する過度ともいえる庇護は、保守的なミュンヘンの市民たちからは激しく強い反発を招くことになっていました。そしてワーグナーも、ワーグナーの都合でまた国王から更なる金銭の援助を受けれるようにと、ワーグナーが政治にも口を出すようにもなりました。そうしたますます立場を強くしていくワーグナーの存在に危機感をつのらせた政府の画策によって、ワーグナーは1年あまりでミュンヘンから追い出されるような状況になりました。

リヒャルト・ワーグナー その1

19世紀のドイツの作曲家でもあり、指揮者です。ロマン派歌劇の頂点ともいわれて、「楽劇王」の別名で知られています。ワーグナーの作品は、ほとんど自作歌劇で台本を単独で執筆しています。そして作曲家としての顔だけではなく、理論家・文筆家としても知られています。音楽界だけでなく、19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人です。

幼少期

1813年5月22日に、ザクセン王国のライプツィヒに生まれました。父親のカール・ワーグナーは警察で書記を務める下級官吏でしたが、フランス語に堪能ということもあり、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出されていました。父親のカールはリヒャルトの生後まもなく亡くなりました。そして母親のヨハンナは、カールと親交があったルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人で実父説もある)と再婚しました。ワグナー一家は音楽が好きで、家庭内で演奏会などをよく開いていたことあり、幼い時から音楽に親しんでいました。リヒャルトの兄弟の多くも、成長してから音楽で身を立てています。リヒャルトは、特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受けることになります。若きワーグナーにとって、ウェーバーは憧れの人で、彼が生涯敬意を払い続けた数少ない人物の一人です。

15歳のころにベートーヴェンに感動して、音楽家を志すことになりました。それと同時期に劇作にも関心を持つことになり、これが彼の独特の芸術を生み出す原動力にもなりました。10代の頃からから盛んにピアノ作品を作曲しています。その作風には、初期のロマン派の語法の積極的な摂取がまだ拙い腕前ですが感じることができます。1830年10月、ベートーヴェンの交響曲第9番をピアノ版に編曲してマインツのショット社に刊行依頼をしていますが、断られています。1831年の復活祭のときにライプツィヒを訪れたショットに楽譜を手渡すとともに、再度依頼しますがその編曲版には不備も多くあったので、出版するまでには至りませんでした。当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示していますが、すぐに辞めています。

青年時代

1831年の18歳の時に、ライプツィヒ大学に入学しています。そこで哲学、音楽を学んでいますが数年後に中退しています。そしてこの同時期に、聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル)だったテオドール・ヴァインリヒに作曲指導を受けています。翌年の1832年に、交響曲第1番ハ長調を完成させています。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲しています。1833年の20歳の時にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となりました。それから彼は指揮者には飽き足らず、歌劇作曲家を目指していますがなかなか芽が出なかったこともあり、貧困と借金に苦しんでもいた時代です。

1834年(21歳)にマグデブルグのベートマン劇団の指揮者となりました。そこの劇団で、女優のミンナ・プラーナーと出会い、やがて恋仲に発展していけいました。1836年(23歳)の時に「恋愛禁制」を作曲していますが、ベートマン劇団が解散していしまいました。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため、リヒャルトは彼女についてケーニヒスベルクへと向かい、その地で結婚しました。(彼女とはのちに次第に不和になる)

1837年(24歳)にはドレスデン、さらにリガ(当時の帝政ロシア、現ラトビア)へと、劇場指揮者をしながら転々としています。1839年(26歳)には、パリへ夜逃げ同然に移っていますがその時も貧しさは変わらずの状況でした。このパリ時代に小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書いています。そしてのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いています。しかし、パリでワーグナーが認められることはまったくないということもあり、次第にワーグナーはフランスに対して悪印象を抱くようにもなりました。その一方で「リエンツィ」は1841年6月(28歳)に故郷のザクセン王国・ドレスデンで完成したばかり、ゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定したこともあって、1842年4月(29歳)にワーグナーはパリで認められなかった失意を抱きながら「リエンツィ」の初演に立ち会うためにドレスデンへと戻りました。